1998年のビエナルの時か、ヘレスに行った帰り、サンタフスタ駅から
 ホテルまでの道がわからず、通りかかった若い女性に尋ねたら
 同じ方向だと少し一緒に歩いてくれた。
  夏の翳りが見えていた頃で、セヴィージャには夏と冬の2つの季節しかない
 太陽が容赦なく照りつける夏から、ある日突然冷たい雨の降る季節になる
 でもそれがいつかは毎年わからない、などと話していて別れ際、今晩エヴァの
 舞台を見に行く、と言ったら彼女は「セヴィージャの人じゃないでしょ」と言った。

  一方、ホテルに隣接した銀行で両替をしたら、窓口の男が「ビエナルに来たのか?
 昨日サラ・バラスをTVで見たか?良かっただろう。」と嬉しそうに言う。

  サラ・バラスはスペインでもアイドル的存在で一般受けするというか、イベリアの
 蒲谷さんはじめ、男性のファンが多いようだ。多分子どもの頃のカディスのグループの
 古い映像を見たことのある私には、未だにお嬢さん芸という印象が拭えないのだが。

  フラメンコを習っている女性たちに圧倒的に崇拝されているのは LA YERBABUENA
 (エバ・ガリード・ガルシア)であろう。彼女もまたグラナダ出身である。

  エヴァについては、前回のビエナル報告記で1ページに亘って書いたし、今更私が
 あれこれ言う必要もないので、ここでは個人的な話をしよう。

  私がエヴァに肩入れするのは、天賦の才に恵まれているばかりでなく、研究熱心
 且つ真摯な生き方に共鳴するからで、人間的資質が近いからだと思っていたが
 月刊パセオ4月号のインタビュー記事を読んで、なるほど、と思った。

  13歳で学校に行くのを止めて、父親に自宅にスタジオを作ってもらったエヴァは
 ビデオを見ながら、朝3時4時まで踊っていたという。
  私も念願叶って自分のスタジオを10年前に作って以来、深夜まで、ある時は早朝に
 スタジオにこもり、ひとり踊り、ビデオを研究するのを無上の歓びとしている。
 夕食を一緒に食べようと待っている夫がいなければ、寝食忘れて自宅に戻らないだろう。
  クルシージョでは確かにその人と一緒に身体を動かす利点はあるが、最高のものは
 出してくれない。ビデオでは、その時点のその人の最高のものをもらえるのだから。

  そしてエヴァの常に自分の内側と向き合う姿、に共感する。自分の中に何があるのか
 を探り、取り出そうとする、一瞬一瞬が賭なのだ。
  冒頭のビエナルの舞台で、アメリカの禁酒法時代のような髪型と白いドレスのしっとりした
 ソレアに魅かれて楽屋に行き、‘LA UNICA BAILAORA DEL MUNDO’=世界で唯一無二の
 バイラオーラと言いたかったのだが、あの強い光を持つ眼でまっすぐに見つめられた時
 言葉が出て来なかった。

  あの眼で見られたことがもう1度ある。
 エヴァのクラスを初めて受けた時、ソレア・ポル・ブレリアだったが、鏡越しにギラッと見られた。
 エヴァの斜め後ろにいて、ある振りのもっとも彼女らしい身のこなしをそのまま、取ったのだ。
 してやったり!である。

  マヌエラ・カラスコやラ・モネタがFLAMENCAだとしたら、エヴァ・ラ・ジェルバブエナはARTISTA
 である。
  先述の記事に続くページで、フラメンコ・フェスティバル・イン・ジャパン2005のガラで
 日本デビューするロシオ・モリーナが「ジェルバブエナをあまりに好きだから、何度も見たくない
 真似になってしまいそうで。」と言っているが、私ももうこれ以上ここでエヴァについて
 語りたくない。

   20/3/05 記         〜〜〜あの日のアルティスタ(14)エヴァ・ジェルバブエナ〜〜〜
                                         <グラナダ シリーズー5> 


  GRANADA にまたひとり怪物が現れた。小怪獣 FUENSANTA ‘LA MONETA’
 その瞳は、獲物を見据えたトカゲ(爬虫類)のようである。

  イベリアの情報誌 ANDALUCIA時代での蒲谷さんのインタビューによると
 カルメン・アマジャを見て、私はバイラオーラにならなくては、と思ったという。
 影響を受けたのは、カルメン・アマジャ、マヌエラ・カラスコ、エヴァ・ジェルバブエナ
 と言っているが、まさにこの3人に続くのがラ・モネタなのは間違いない。

  この間のビエナルのハビエル・ラトーレの舞台で‘発見’した。
  JAVIER LATORRE は以前ビデオで見て振り付けのうまい人だと知り、いつか
 レッスンを受けたいと思っていた。 鈴木能律子さんが招んだ時、太ってしまって
 いたのに驚いたが、2002年にはコミカル・フラメンコとでも呼ぶべき領域を開拓して
 楽しませてくれた。新しい人を発掘する才にも優れ、今回のビエナルにはどんな舞台を
 見せてくれるかと期待していたが、構成のヒントは与えてくれたものの、余り冴えなかった。
  で、唯一光り輝いていたのはモネタのシギリージャだった。隣の席の日本人の女の子に 
 誰だかわかります?と訊いたが、恐らく知る人はほとんどいなかった、と思う。

  帰国後間もなく、エンリケ・エストレメーニョの推薦でイベリアでクルシージョをすると知った。
 あれを見て習いに行くお調子者も少しはいるだろうけど、モネタだからいい、彼女のようには
 踊れないのに、誰が行くのかな?と最初思ったが、結局受けに行った。
  20才の今の彼女と同じ板の上に立ってみたい、という好奇心に抗えなかったのだ。

  クルシージョ自体はベレンやロサリオのと余り変わらなかった。つまり若々しい雰囲気が。
 音の創り方は尋常ではなかったけど。一箇所だけ褒められた!

  最後の日の夜、サラ・アンダルーサでのステージを見た。
 皆、打ちのめされたようだった。もう何にも言うことはない。ただただ新しい逸材の出現を
 歓ぶしかない。

  一緒の舞台に立つマラ・マルティネスなどもいい味を出し、大いに盛り上がるのだが
 モネタが決定的に異なるのは、彼女がその場を切り裂くことだ。
  勿論定めた振りはあるのだが、それを感じさせずにその場に素手で挑む。音を畳み込みながら
 ただその瞬間にその場に生み出そうとする、何かを待つ、というのだろうか、神をか、奇跡をか
 見ている私たちも彼女と一緒に待つ、一緒に体験する、そういう空間なのだ。
  こういう感覚はマヌエラ・カラスコにしか経験したことはない。

  恐るべし LA MONETA ! 同時代に彼女を迎えられたことに素直に乾杯!!

    18/3/05 記             〜〜〜ある日のアルティスタ(13)ラ・モネタ〜〜〜
                                      <グラナダ シリーズー4>


  RAFAEL AMARGO と共演しようかと思い立ったのは、下世話に言うと
 踊っている時の顔が昔の恋人に似ていたからである。日本人だけど役者の卵だった。

  グラナダ出身のラファは当時は RAFAEL HERNANDEZ といって、ラ・チナに連れられて
 新宿エルフラメンコに出演し、ソロを踊り、若い相手役としてチナとも踊っていた。
  そのソロの素晴らしいソレアを見て、一緒にいた生徒たちもたちまちファンになり
 ショーの合い間にテーブルに呼んで、その場でレッスンに来てもらうことが決まった。

  共演が決定的になったのは、94年の秋、これも生徒と一緒に京都に行った帰り
 名古屋の人の公演に招かれたのを見に行った時だ。
  これなら私の方がいい舞台を創れると思い、フィナーレに赤い薔薇を1本贈って
 次は私、と宣言した。打上げの前に彼を拝借し、居酒屋で話が急速に具体化した。

  翌95年は私の舞踊生活30年、スペイン舞踊を始めて20年、教え始めて10年という
 節目の年だったので、芝のABCホールで記念公演と称し、習い始めて3年の
 タンゴ・アルヘンティーノを師である日本第一人者の小林太平氏と踊り、ラファとフラメンコを踊る。
 フラメンコのタンゴも踊り、2つのタンゴを踊り比べて、公演名も‘SABOR A TANGOS’
 パレハはカーニャを振り付けることにし、ラファにはファルーカのソロを所望した。

  それから、何回かの練習が始まるわけだが、我がままで悪い子ちゃんと評する人もあるが
 (あれだけ美しいのだから、モテて当然!)来日が遅れたり、最初の内はレッスンにダレていた
 こともあったけど、私には素直でいいパートナーだった。私生活ではレッドロブスターであっちの
 アイスクリームがいい、こっちのケーキがいいと駄々をこねる子ども(20になるかならぬかの)
 だったけど。

  本番前のリハーサルで振りを変えるなどもあったが、本番ではちゃんと気を遣ってくれて
 息の合ったパレハになった。写真で見ても、ビデオで見ても、どの瞬間もピタッと合っている。
 私の後にも、岡田昌巳さんを初め何人かが共演しているが、パレハの出来としては
 私のカーニャが群を抜いていたと自負している。

  相手の呼吸で踊るというのは大変なことで、岡田先生は途中からラファと踊ることを
 捨ててしまった節がある。もうひとりのスペイン男性とたくさん踊っていたし、やはりラファには
 手を焼いたのだろう。パレハは惚れた相手としか出来ない。その後も遭う度にラファから
 悦子、またやろう、と言われたが、あの時の私だから出来たのだ。

  その後MADRIDに行った時に、彼のピソに寄らせてもらってご両親ともお会いした。
 パパはラファを売り出すことに熱心で、名前もHERNANDEZは平凡だから、AMARGO(苦い)にした
 と説明してくださった。EVAとの共演などにも力を尽くされたのだろう。

  近年スペインでの人気も急上昇中と聞いていたが、昨年10月1日に自分の舞踊団を率いての
 初の日本公演をするというので、ビエナルから前日に戻って応援に行った。
  出来は今ひとつで、「見て!見て!」状態がホアキン・コルテス路線を行ってるようで、気になった。
 最終的にはベテランの唄い手たちに助けられ、自身も客席に降りて握手をするというサービスで
 ファンを掴んだようだが。

  楽屋に行ってハグというより、飛びついて抱き合ったが、30を迎えようとするラファは素直な青年
 そのままで安心した。でも10年前のソレアの方が私は好き。
  5年後、10年後のラファがどんな踊り手になるか見守りたいと思う。

    17/3/05 記           〜〜〜あの日のアルティスタ(12)ラファエル・アマルゴ〜〜〜
                                          <グラナダ シリーズー3> 
  


  子どもの頃、グラナダのサクロモンテの洞窟で踊っていた JUAN ANDRÉS MAYA を
 初めて日本に連れて来たのは、やはりグラナダに住み着いていた高橋英子さんだと思う。
  1994年王子の北とぴあの小さな舞台で、ホアンはまだ少年の面影を残していた。

  次は96年頃か、イベリアがホワキン・グリロと共に、3人の若手男性舞踊家として紹介した。
 この時のホアンの女振りのソレアには甘やかな香りがあった。24才、世阿弥のいう「時分の花」
 だろうか。日本フラメンコ界の女たちを魅了した。

  97年私がまずグラナダに行ったのは、半ばはホアンに会うためだった。が、前回に書いたように
 NY公演に行くということで敢え無く断られた。

  翌98年には恵比寿の大塚千鶴子さんのスタジオでソレアを、2000年初めにはマルティネーテを
 その後アルテフラメンコのサラさんのスタジオではタラントを其々習う機会に恵まれた。

  殊にバストンを持ってのマルティネーテの時には、クルシージョ後エルフラで発表会をするとかで
 誰か踊らないかと言われた。皆下を向いていたら、やはり下を向いていたホアンが眼を少し上げ
 私を顔で差して ‘¿TU?’と聞く。いいなあ‘TU’の響き!でもゴメン、ホアン、私4月初めに決まっている
 札幌公演でこのマルティネーテも踊ろうと思うので、早速私のヴァージョンに創り変えたいんだ。
 このまま、エルフラで踊ってる暇はない。札幌では全部で4曲踊るし、生徒の分も全体の構成も
 しなくちゃならない。ー結局サラさんと何人かが群舞で踊ったらしい。

  JUANの舞台は、青山円形劇場でも、六本木の交叉点近くに短期間どこかの食品会社が設けた
 派手な造りのタブラオでも、98年のビエナルのオテル・トリアナでも、命を削らんばかりの
 パフォーマンスだった。何とかして客を盛り上げようとするのだろう、ホアンもういいよ、寿命縮めちゃうよ
 と言いたいくらい必死でこれでもか、これでもか、と鼓舞する。客はたまに乗り切れない時もあるが
 たいていは狂わんばかりにヒートアップする。客へのサービス精神はサクロモンテの伝統なのだろうか。

  98年のオテル・トリアナでは終演後興奮覚めやらず、ちづこさんとふたりで係員の制止を「日本から
 来た友だちだから」と振り切って楽屋に行き、カンタオーラと共に歓迎されてBESOで再会を祝した。

  その後もビザの問題があったり、病気や仕事を理由に何回か来日はキャンセルになっている。
 今は世界のJUAN ANDRÉS MAYA として、世界中のホアンのファンを熱狂させているのだろう。

   17/3/05 記          〜〜〜あの日のアルティスタ(11)ホアン・アンドレス・マジャ〜〜〜
                                           <グラナダ シリーズー2>
  


  前回のマノレテがグラナダ出身だからだろうか、セビ−ジャ派・ヘレス派などと分けると
 私はグラナダ派である。つまりグラナダ出身の踊り手に縁があるということ。

  何回か触れて来たがまだ書いていない、1997年にグラナダに滞在した時の話をしようと思う。

  この時は、イベリアの蒲谷氏の持つアルバイシンのピソにお世話になった。
 つまり、かのアルハンブラ宮殿から見下ろすヒターノたちの住む迷路のような白い街の ど真ん中
 で暮らしたのだ。洗濯物干し台でもあるテラスからも部屋からも見渡せるアランブラ宮殿は
 夕陽に真っ赤に染まり、夜はライトアップの中に浮かび上がり、それを見ながら眠りについた。

  事前に良く知らずに泊めてもらったのだが、ここはホームステイに近く、階下に住むヘルマン氏の
 所有する部屋で、蒲谷氏がグラナダに来た時に泊るらしく、シーツも洗濯しているのか臭いが染み付き
 つまり…… が熟睡後、不思議と懐かしい朝を迎え、寝過ごした子どもの頃の目覚めのようだった。
 通りで豆腐売りとの話し声が聞こえる幻聴がした。
  さらに知らなかったが、バスルームを共有する隣の寝室にはヘルマンJRが眠るはずだったのに
 バスルームから寝室までバスタオルを巻いて移動する習性のある私は、夜、玄関の内鍵を閉めて寝た。
 結果ヘルマンJRを一晩締め出してしまった。でもまさか、これじゃ夫より近くに寝ることになるじゃないか!

  国際音楽舞踊祭に合わせて行ったので、毎晩のようにペーニャ(フラメンコ愛好家の集まり)があった。
 石畳の曲がりくねった細い坂道はタクシーも入れない。往きは親切にもヘルマン氏が送ってくれることも
 あったが、深夜の帰路は一人。人っ子ひとりいない暗い道を靴音を規則正しく響かせながら歩いた。
 後から聞いた話によると、私の前に泊っていた日本人の女の子が夜、暴漢に襲われ顔を殴られて入院
 していた!

  ペ−ニャは会場によっても雰囲気が異なったが概ね友好的で、色んな人と知り合った。ある中庭では
 スペイン語クラスの外国人(大人)たちのテーブルに座らせてもらい、その先生らしき人は上智大(なるほど
 スペイン語が盛ん)で最近まで教えていたそうな。名古屋の松下幸恵さんと友人の現地でガイドをしている
 男性とも別のペーニャで一緒になって呑んだ。

  あるペーニャで奇想天外なことが起こった。外国人の観光客が多かったのだろうが、私は前の方の真ん中
 あたりで聴いていた。現地の唄い手らしい MANOLO OSUNA の TARANTO があまりに良かったので
 我知らずハレオを掛けていた。そうしたら、休憩後登場するなり、こちらを向いて「前に来て唄え」と言う。
 キョロキョロしていると、皆がお前のことだ、と私を見る。`¿YO? NO PUEDO CANTAR.' =私?唄えません。
 と必死で辞退した。踊れ、ならまだしも、唄え、とはねえ…

  昼間は暇なので、どこかに習いに(踊りを)行こうと探したが、グラナダ出身の踊り手たちの多くが最初に
 習いに行くマリキージャはバルセロナに行ってて留守、ヘルマン氏(ギター製作者、木屑の舞う工房も
 見せてくれた)が広場でマノレテをみかけたから、頼んであげようかと言ってくれたが、マノレテとの
 1対1のレッスンは少なくともその時点では恐れ多く…結局、サクロモンテの CARMEN DE LAS CUEVASと
 いうスペイン語とフラメンコの学校で上級の個人レッスンを頼んだら MARI PAZ LUCENA を紹介してくれた。

  洞窟のスタジオでタンゴとブレリアを少しずつやってもらったが、今度日本に行くという。
 (確かに数年後大阪とその後新宿のエルフラにメインで出演した。他のメンバーは印象に残っていないが
 マリパスは自分のスタイルを持った踊り手になっていた。)
  レッスンが終わって外に出ると、ギタリストの恋人と抱き合ってBESOしていた。乾いた小道には
 紫色の小さなCAMPANILLAが咲き誇っていた。

  実は会いたかったのは、マノレテやマリオ・マジャの甥っ子でもある JUAN ANDRÉS MAYA だった。
 JARDINES NEPTUNOという大きなタブラオに出ていると聞いて、郊外まで出向いた。(バスで?帰りは
 タクシーも拾えず大変だった。)何人かの女性相手にホアンが踊るショー形式の出し物は感心しなかった
 が、幕間に彼をみつけて個人レッスンを申し込んだ。肩に腕をまわしたホアンに、「明日からNYだから
 また今度ね。」と軽くいなされてしまった!で、その後どうなったかは、次回。

   16/3/05 記          〜〜〜あの日のアルティスタ(10)マノロ・オスナ&マリパス・ルセナ〜〜〜 
                                             <グラナダ シリーズー1>    


  回想ついでに、私のフラメンコの原点とも言えるMANOLETE=
 MANUEL SANTIAGO MAYA について書きたいと思う。
  マノレテの記憶は既に何回か登場した碇山奈奈さんと分かち難く結びついている。

  1985年か、東北沢のアモール・デ・ディオスで、奈奈さんがクラスレッスンを始めた時
 アトリエカルメンをしている永瀬洋子さんに誘われた。
 今考えると、やはりマノレテの振りだったのだろう、複雑なソレア・ポル・ブレリアやタラントに
 皆悲鳴を上げた。ここでギターを弾いていたのが、その後長くお世話になることになった
 若き日の山崎まさし氏だ。

  この時の逸話で覚えているのは、ある日奈奈さんがマンションを空けられないとかで
 電話がかかって来、私を指名して自習を進めるように言ってきたこと。
 名誉なことではあるが、前からの奈奈さんの生徒を前にして、途方に暮れてしまった。

  もうひとつは東北沢の駅からスタジオに向かう途中で、後ろから追いついた奈奈さんが
 「私、スタジオを持とうと思う。子どもがいないのだから、その分スタジオくらい持っても
 いいんじゃないかと思う。」というような言い方をしたこと。小学校に入ったばかりの子を
 持つ私にとっては、将来自分のスタジオを持つことなど考えも及ばなかった。

  そんなことより、子どもが学校から帰って来た時、なるべく家にいてやりたかったので
 クラスの進み具合が遅いのが気になった。
 個人レッスンをしてくれることになり、アルス・ノーヴァでマノレテのソレアの振り移しをしてもらった。
 当時の奈奈さんのお気に入りの曲だったのによく教えてくれたものだと思う。
 「斎藤さんの表現は私と違うから」と言うが、私は奈奈さんから「表現のしかた」を学んだ。

  その2年後くらいに彼女は方南町にスタジオ・エランを作り、挨拶に行った。その頃から
 マノレテとの共演が始まり、彼のクラスに誘ってもらった。
  初めは歯が立たなかったが、この時のソレアと奈奈さんを通して習ったソレアから
 自分のソレアを創り、それが私のバックボーンになっている。

  最初のレトラの振りを替え、エスコビージャも発展させ、途中に入るソレア・ポル・ブレリア
 と最後のブレリアもその度変えているが、全体の構成と山崎さんとの大好きなファルセータの部分
 2つ目のソレアの唄、ブレリアに入って行く箇所はそのままに、5年・10年毎に踊っている。
 これを見ると、その時の私がわかる。いずれにせよ、これ以上好きな曲には出会えまい。
 こういう曲に出会えたことは幸せだろう。

  碇山奈奈さんは、最も尊敬する日本人バイラオーラである。あの時のマノレテとのマルティネーテ
 は私にとってパレハの目標であり、最初に見た今はなき新宿ギターラでのガロティンの登場シーン
 は一生忘れ難く、最近の「忠臣蔵」も世界に出せる作品だと思う。

  そしてマノレテは2000年のビエナルだろうか、隣の席にいた家城直子ちゃんに言ったように
 「やっぱり私にとっての男性舞踊手そのもの」なのだ。

   15/3/05 記             〜〜〜あの日のアルティスタ(9)マノレテ&碇山奈奈〜〜〜  
  


  火曜クラスで振付が終わったばかりの TANGO DE MALAGA は LA TONA の
 振付によるものである。1990年の初めに碇山奈奈さんのスタジオで習った。

  やたら噛み付かんばかりのフラメンコが流行る昨今では、こんなにたっぷりとした
 振付は珍しく、レトラの持つゆったりとした感じを表現する勉強になると思う。

  私は92年に新宿エルフラメンコで4曲踊った時、マノレテの TARANTO をパンツ姿で
 踊った後、対照的にこの TANGO DE MALAGA を艶(あで)やかに(?)踊った。直後
 銀座博品館ホールの十五周年記念のフラメンコ・フェスティバルにソロを誘われた時
 (確か初々しい吉野真未ちゃんがいた)何を踊ろうかと迷った揚句、やはりこの曲にした。

  トナは落ち着いた人妻の魅力を持ったセビージャ出身のバイラオーラで、カンタオールの
 だんなさまといつも仲睦まじかった。奈奈さんのスタジオはトイレのドアが直接スタジオに
 面していて入りづらいので、1時間半かかって通う私は早めに行って、近くのスーパー
 マーケットで時間を潰していたが、そこでいつもおふたりに出くわした。
 いい感じのご夫婦だった。

  ちょうどその頃、私はサングリアというプロの(クラスを教えている人たちの)グループに
 加わっていた。で、そのグループでもトナに教えに来てもらうことにした1日目、更衣室で
 トナが私に‘じゃ、あなたがこのグループをDIRIGIRしてるの?’と聞いた。 DIRIGIRが
 わからなかった。指導する、とか 導く、とかいう意味。そんな!フラメンコ歴はともかく
 大半が年上で、しかも わりさや憂羅さんが抜けた後に入れてもらったばかりだというのに…

  結局90年秋に6人でABCホールで公演した舞台では、トナに習ったソレアは踊らず
 各々のソロの他は、田中美穂さんに習ったカラコレ(今、マントンとアバニコを持って
 月曜クラスが挑戦中!私たちはさらにバタ・デ・コーラだった)と水沢明雄先生に習った
 ファリャの三角帽子の中のラ・ビダ・ブレベの難しいパリージョ付き(!!)を群舞した。
 この時仲良くなったのが、ちづこさん(大塚千鶴子さん)とやすこちゃん(曾我辺靖子さん)
 今二人共フラメンコ協会の理事としてがんばっている。

  何年か後にセビ−ジャに行った時、トナのスタジオに行ってみたが、ちょうど改装中だった。
 あれから15年も経つのか…
  他の曲はどんどん新しく振付し直すのに、この大好きな TANGO DE MALAGA には
 不思議と手を加える気にならない。
  その後ビデオでしか拝見しないが、あの素適なご夫婦はお変わりないだろうか…

    13/3/05 記                〜〜〜あの日のアルティスタ(8)ラ・トナ〜〜〜      

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