全体を読み返してみると、1回目のサンルーカル・デ・バラメーダは
 まだ文章が硬く、その後急激にズッコケモードになり、本当に書きたかった
 人たちのところで熱がはいり、回想を経て自分のことを書き出したように思う。
  記憶が薄れない内に、この20年の骨格を書き留められたのは良かった
 と思うことにしている。当初は考えなかったが、やはりこの記念の(区切りの)
 年に書いたのは意味のあることなのだ。


  ふり向けば宝の山、である。
 普段は1年先くらいを射程に、常に新しい刺激を求めて来たが、後ろに続くは
 汲めども尽きぬ宝の泉だ。
 
  世界最高級のこれだけ多くの人に直接教えを請える分野は他にあるだろうか?
 習った直後なるべくそのまま踊ってみるが、その後 血肉になるのを待つ
 5年・10年後にもう1度やると新しい発見があり、気づかなかったものが見えてくる
 −経験を積むことの歓びだ。

  そしてこれを日々生徒におすそ分けしている訳である。
 どれだけのものを受け取れるかは、ひとりひとりの能力次第。左手を上げ
 右に回るのを伝える為に、自分の身体を使って教えているのではない!

  確かにひとりの惚れ込んだマエストロ(ラ)に徹底して随って行くメリットもあるだろう。
 その人を越えることはないが。幸か不幸か今までそういう相手はいなかった。
 色んな人に色んなものをいただいた。

  ひとつ間違って欲しくないのは、日本でまだ基礎もできていないのに
 次々と先生を替えている漂流民がいるが、これで実力を得た人はいない。
  バックボーンと自分の場ができてから、他のものも得て太って欲しい。
 因みに当スタジオではスペイン人のクルシージョを受けるのは自由だし
 そこで習ったものを発表する機会も与えている。
                       *
  夕張の中学1年の時、合唱クラブにいてNHKのコンクールで北海道優勝
 全国4位になった。当時はピアノを弾ける生徒はまだ珍しかったので、先生の
 代理ができるということで(母が言うには)、1年生でも正メンバーに入れて
 もらっていたのだが、この時歌った自由曲がジプシーを題材にした「流浪の民」。
  ‘めぐし(美し)乙女舞い出でつ’‘管弦の響き賑わしく’…である。

  札幌に出てからの中学3年だろうか、熱に浮かされたように読み耽った小説が
 「嵐が丘」。ヒースクリフは私の永遠の男だが、彼はヨークシャに連れられて来た
 ジプシーの男の子だった!

  後年フラメンコに身を浸すことになるのは、あの頃運命づけられていたのか?
 同じ附中2年の時出会った、初めて尊敬できる女性ー京大を出た英語の先生
 の影響でICUに進み英語で暮らしていた時期を第1ステージとするなら
 私にとってフラメンコは第2ステージ。これは後何年続くのだろう?
 より研ぎ澄まされて私自身になり、フラメンコの中に深く沈潜していく予感がする。
                       *
  書くことは昔から好きで、学生時代の親友はぶ厚い手紙にため息をつかされた
 と思うが、久しく書くこともなかった。一旦始めてみると凝ってしまい、振付しながら
 目覚める代わりに、文章の構成を練りながら目覚める朝も多々あった。

  お蔭で腰も痛めてしまったし、ざっと数えてあと十数名習ったアーティストは
 いるのだが、ここら辺でスタジオに戻ろうと思う。
  とは言っても、この間もフラメンコ・フェスティバル・イン・ジャパン2005のチケット
 争奪戦やら、発表会の音合わせ日程を決めるのに苦労したり、ステージを
 見に行ったり、ビデオと格闘したりといろいろしてきたが…

  生徒が妹だった頃は時々一緒に飲んだりしたが、最近は娘に近くなり
 めったにそういう機会もなくなった。(スペインに行った時、バールのテラスで
 ヴィノやセルベサの酔いに任せて要らぬ話をすることもあるが…)
 そういうものが溜まったのかもしれない。

  ヨタでいい気な文章にたまさかでもお付き合い下さった方には、心よりお礼
 申し上げる。フラメンコのことがわからない、という声もあって、ますます余談に
 走ってしまった所もあるが、それぞれに楽しんでいただけたら幸いである。

  当初のつもりと違ってひと月で書き上げてしまったが、毎日更新しても読んで
 いただける訳もなく、1週間位我慢したので、枕の話題がずれてしまった。
 新鮮さこそ命!と、中程では2話編成にしてずらして更新してみたりもしたが。

  折悪しく預けているサーバーが新しくなった後の設定の不具合で、ちょうど
 佳境の辺りでHPが開けないことが続き、私もイライラしたが、楽しみに
 してくださってた方にはご迷惑をかけたと思う。

  読み逃した回を読んでみたいという奇特な方がもしいらっしゃるかと想定して
 バックナンバーなるものを作り、プロフィールのページから入れるようにする
 予定である。

  どうもありがとうございました。    25/3/05 記   〜〜〜あとがき〜〜〜 


  青山大学近くの洒落た店で附属中学の同期会が開かれていた。
 1999年夢のひとつの五反田ゆうぽうと、客席1800の大ホールでの
 公演を実現させた直後だった。「薬のヒグチ」よろしく、生徒100人突破を
 目標に代教二人に手伝ってもらって、スタジオを大きくして成し遂げたのだ。

  附属中学というのは北海道教育大学の附属中学校ということで、東京生まれ
 の私が父の転勤で北海道の炭鉱町の小学校を終えた後、札幌に出た時
 欠員があって編入したのだ。1学年2クラスしかなく、小学校から一緒の皆は
 家族ぐるみで仲がいい。自分の子供達が中学に入る頃から、首都圏に住む
 人たちの同期会が東京で毎年6月に開かれるようになり、その場でのことだ。
 
  札幌から参加していた田中君に「一度札幌で踊ってみたいのよね。」とポツッと
 漏らしたら、「やれるよ、やろうよ。」と即座に言ってくれた。北海道の男は頼もしい。
 それから夏には札幌での同期会に出席するため、何十年振りかで北海道に飛び
 懐かしい想いに胸を焦がしながら、会場を探し、高校時代の友達にも応援を頼んだ。

  昔の仲間たちは異口同音に「竹内さん(旧姓)が何でフラメンコ?」と訊く。
 私に言わせると、学校(の勉強)は付き合っていたに過ぎない。家に帰ったらピアノ
 を弾いていた。もっと小さい頃はバレエを踊り、お話の主人公を何人か常に抱え
 広告の裏にマンガや物語を書いて少女雑誌のように綴じて友達に読ませ、家では
 お誕生会、クリスマス会と称して弟相手に劇や歌や踊りを演出し両親に見せる、と
 こんなことばかりしていた。過去のターニングポイントで違う方に曲がっていたとしても
 結局同じようなことをしていただろう。

  中学の友達の中に札幌で「赤い実企画」という芝居のプロダクションをしている人がいて
 彼女に随分助けられた。なかなかいい規模のホールがなかったが、レンガ造りの元倉庫
 がイベント用に貸し出していることを知り、行ってみるとなかなか良い雰囲気、パンフの
 照明写真を見て意欲が沸いて来た。

  中学の仲間がチケットを売ってくれるというが、低予算、ギターと唄い手はひとりづつ
 しか頼めない。
  ギターは勿論山崎まさしさん、碇山奈奈さんの所で知り合ってから、私のソレアには
 なくてはならない人だ。彼の名を聞いて、旭川か帯広かから来てくれたファンもいた。
  カンタオーラの手塚環さんは、どこかの発表会で聞いて惚れ込んで以来お願いしている。
 山崎さんにセカンド・ギターに誰がいいかを尋ねたら、環さんのご主人の今田央さんを
 指名され、好都合だった。で、この何年間かは この3人を中心に、去年はカンテに
 アントニオ・デ・ラ・マレーナ・デ・セヴィージャ、今年は彼がスペインに帰るので
 アギラール・デ・ヘレスに頼んでいる。

  環さんは名前を言わなければ、カンテも容姿もスペイン人と皆思い込む。2000年4月の
 札幌公演でも多くのファンをつかんだ。
  山崎さんにはギターソロもお願いし、レンガで覆われた空間の中、スポットライトの元で
 弾くファルーカは素晴らしかった。彼自身にも良い体験だったらしく、スタッフにお礼の
 メールをしてくれた、と聞く。
  山崎さんには珍しいことがあった。ソレアの途中でギターが止んでしまったのだ。
 シン・ギターラになる場面と思えないことはなかったが、そういう決まりではなかった。
 終わってからゴメンと言われた時は、興奮していた私は忘れていたが。
 山崎さんでも場面に酔ってしまうことはあるのね。

  この時は上級生8人が手伝ってくれて、開演前に評判のラーメンを食べに行ったり
 打上げに中学の皆と一緒に北海道の海の幸に舌鼓を打ったり、翌日は小樽に行ったりと
 楽しい公演旅行になった。

  この間、洞爺湖で同期会があった。
 別れ際、田中君が言ってくれた。「また、やろうよ」!!

   25/3/05 記        〜〜〜あの日のアルティスタ(28)山崎まさし&手塚環〜〜〜


  最初に好きになったCANTAOR(A) はFERNANDA DE UTRERAである。
 古い音源から更にテープにダビングしたものを聴いた。
  妹のBERNARDAと共にウトレラ姉妹として知られているが
 私が心を揺さぶられるのは、圧倒的にフェルナンダの方だ。

  ソレアもいいが、カンティーニャの出だしの唄い上げる所
 は何度聴いても泣ける。
  女として生まれたことの深い哀しみと愛に充ちている。

  84年のセヴィージャで生で聴いたような記憶がある。
 いや、舞台には上がったものの、もう体調が余り芳しくなく
 ベルナルダは唄ったが、フェルナンダの声は聴けなかったのかも知れない。
  この時印象に残っているのはNARANJITO DE SEVILLA(セヴィージャの
 オレンジ坊や?) セヴィージャらしい明るさと粋が香っていた。

  カルロス・サウラの創ったビデオ「フラメンコ」の映画版の試写会で
 フェルナンダが唄い終わった後で「今のとこ、も1度唄いなおしていい?」
 と聞いているのが入っていて皆の笑いを誘った。

  次に好きになったのはJOSÉ MENESE。ホセ・メルセの方ではなく ホセ・メネセ。
 先のビデオ&映画ではペテネラを唄っているが、彼のTIENTOが好きだ。
  2000年のビエナルではPAQUERA DE JEREZ(マイクなんか要らないと
 声を張り上げて元気いっぱいだったのに、去年亡くなってしまった!)
 の前座のように扱われていて、私は大いに不満だった。

  こうしてみると自分ではその気はないのだが、泣きの唄い手が好みなのだろうか?
 最近ではめったに泣くことなどないが、小さい頃は泣き虫だった。

  そもそも3歳のときモダン・バレエを習い始めたのも、泣き虫を治すためだったらしい。
 それでも、お母さんたちが見て笑っていたと言ってはレッスンの度に泣いていた。
  バレエの先生が養女に欲しいという話も、幼稚園の友達のお父様が元
 NHKアナウンサー高橋圭三氏だったことから「悦っちゃん、今度テレビで踊ってね」
 という話も、父の転勤でダメになってしまったが…

  そのバレエの先生の40周年(!)記念発表会で踊って欲しいと頼まれ、母とスタンドの
 お花を贈って駆け付けた。
  ギャラは出そうになかったので、ギターや唄い手は頼めず、困った挙句に
 この際とホセ・メネセのタラントに振付けて踊った。
  これに味をしめ、祭などギターや唄い手を頼めない時は、チャノのアレグリアス、
 カマロンのブレリア、ドュケンデのタンゴと思いのままだ。
 −−絶対に伴奏では唄ってもらえない人たち。

  そういえば今年は私の舞踊生活通算40年、フラメンコを始めて30年、教え始めて
 20年、スタジオ設立10年の記念の年だ。
  10年前はラファエル・アマルゴを招聘し、タンゴ・アルヘンティーノも披露したが
 今年の舞台は‘ANIVERSARIO’と銘打つも格別の趣向はない。深みを心掛けるのみ。
 この先、どんな出会いが待ち構えているかも知れないから。

  先程ヘレスから唄い手のルイス・モネオを招いてコンサートをしたギタリストの俵英三氏
 も言っていたように、日本で不足しているのはいいカンテを聴くこと。
  スペインにはカンテを聴きに行くのかもしれない。アンダルシアの赤土のオレンジ畑を
 延々とバスで走っていると、耳にカンテが響いてくるのだ。

   8/5/05   〜〜〜あの日のアルティスタ(27)フェルナンダ・デ・ウトレラ
                                 & ホセ・メネセ     〜〜〜  


  梅雨だというのに真夏のような暑さが続くが、これを書いていたのは
 まだ3月下旬で、桜が待ち遠しい頃だった。
  3年前の3月の終わりに、ICU(大学)のセクション(クラス)の集まりが
 卒業後初めてあった。
  ICUの正門からキャンパスに続く200メートルの真っ直ぐな桜並木がある。
 私たちが学生だった頃も美しかったが、年月を経て堂々とそれは立派な木に
 育ち、暖かかったこの年は見事な桜吹雪の中での再会となった。

  この時約束して見に来てもらったのが、6月の新宿エルフラメンコでのライヴ。
 成長した上級生たちのソロもなかなか好評だったが、私は草野桜子さんの
 スタジオで習ったマリア・デル・マール・ベルランガのアレグリアスのレトラを
 幕開けに踊り、後はエルフラに出ていたカルメラ・グレコにもらったタラントと
 グァヒーラを踊った。

  「グレコ」というのはギリシャ人という意味で、あの画家のエル・グレコも本名では
 なく元々は愛称だったのだ。
  去年の暮から正月にかけて、コート・ダジュールとプロヴァンスを旅した時
 マルセイユにも寄った。ここはギリシャ人の漁民が住み着いた港町だという。
  地中海では古い歴史の中、多くの民族が行き交ったのだろう。あるいは交易で
 あるいは戦いで。
 
  子どもの頃から MEDITERRANEAN (地中海)には興味があった。
 ICUでは入学してすぐ教授の家を訪問する機会があるが、アメリカ人の教授に
 「どこの国に行きたいか?」と訊かれ「イタリア」と答えた覚えがある。 
 何代か前の前世ではあの辺にいたのではないか?人間ではなく鳥かも知れないけど。

  CARMELA GRECO の祖先もギリシャ人だったのだろう。
 父がホセ・グレコ、妹は国立舞踊団の芸術監督をしていたローラ・グレコだ。
 カルメラはローラの陰に隠れているようでもあるが、個性豊かな踊り手だと思う。

  エルフラでタラントを見たその場で、クラスをしていることを知り、翌週から通った。
 いつもは寝ている日曜の朝のクラスだった。タラントが終わったら、他の人が
 踊っている、アバニコの扱いが可愛らしいグァヒーラも彼女の振付けだというので
 こちらも希望した。
  だんなさまのギタリストに助けられて、コンパスが少々不安な所もあったが、大人の
 振付けをもらえた。

  で、2002年6月の4回目のエルフラで踊ったら、生徒たちには優雅なグァヒーラが受け
 一方タラントを見て泣いてくれた大人の女性がいると聞いて、うれしかった。

   24/3/05 記       〜〜〜あの日のアルティスタ(26)カルメラ・グレコ〜〜〜 
                              


  フラメンコに関係のない人でも、招待したとかされたとかで新宿エル・フラメンコに
 行ったことのある人はかなりいる。
  水曜を除く毎晩、半年契約で来日しているスペイン人の踊り手たちが出演している。
 それ以外の時間は貸し出しするので、ここで公演する日本人の踊り手も多い。
 舞台・照明・音響が整っているので便利だし、雰囲気がいいので観客にも好評だ。
  私も今までに4回ライヴをした。

  1回目は92年の3月、習っていた時代の総集編として踊った。
 85年にカルチャーセンターでセヴィジャーナスを教え始めた頃の生徒はほとんど主婦
 89年春に柏で第1回目の発表会をしたが、その頃よりバルセロナ・オリンピックの
 開会式で踊ったクリスティーナ・オヨスを契機にか、世間では急速にフラメンコが注目され
 若い女の子たちが習いに来た。
  で、この人たちがよちよち歩きの頃、華やかなエルフラでコンサートをしようと企み
 持ち曲も少ないので、私がタラント、タンゴ・デ・マラガ、アレグリアス、ソレアと4曲踊った。
  終演後お金を払いに行くと、エルフラ・マネージャーの竹内氏が
 ‘やあ、良かったなあ。ほんとに良かったですよ。’と本当に感じ入ったように言ってくれた。
 多分エルフラ出演中のスペイン男性2人も私のソレアを見ていたらしい。
 `BIEN' と言われたような気がする。

  2回目は息子が中3、高校受験を控えた親としても1番しんどい年を乗り切った後の
 94年6月、アルゼンチン・タンゴが面白くなっていた頃だが、シギリージャを初めて踊った。

  95年にはラファエル・アマルゴとの公演、スタジオ設立と続き、生徒数が一挙に増えて
 それ以後は しばらくテアトロ(劇場)で発表会をしてきた。
  生徒の発表会と自分の公演を分けてやる人もいるが、それも大変なので、公演並の
 劇場・演出で、初心者にも出演させる方法を採って来た。それはそれでリハーサルで
 疲れ切ってしまうなど大変なのだが。

  上級生の力も付いて来た頃、タブラオ形式の舞台もやってみようと、3回目に挑戦した。
 99年4月に念願の五反田ゆうぽうとの大舞台で公演した後の99年11月だった。
 この後2000年4月には札幌公演、6月には「北とびあ」で発表会をしている。
  この時期は踊りたい時期だったのだろう。踊りたい時期と、静かに研究・創作したい
 時期が交互にある。

  この頃はエヴァの研究に余念がなかったので、オーソドックスかつ斬新なアレグリアスを
 披露した。環さんの唄と今田さんのギター1本で音的にはちょっと寂しかったけど。
  また、生徒にもらった小振りのマントンでブラウスを作ってもらったのだが、イメージと違う
 ものが出来上がり、髪を結っても結んでも貧弱な感じがして、思い切って1度してみたかった
 裸足の舞姫のようなザンバラ髪(結わかないそのままの形)で踊った。

  踊り終わって出てくると、エレベーターの前で待ち構えていたスペイン人カンタオールが
 嬉しそうに拍手で迎えてくれた。‘エッ、見てたの?’
 彼は私の髪の毛をひっぱりながら、‘とても良かった。だけどこの髪はいただけない。
 フラメンコは結わかないと’と言った。

  名刺を見ると MANOLO SEVILLA とあった。そう言えば、セヴィージャのロス・ガジョスで
 何度も聴いてた人だ。彼、あのアレグリアス 唄いたかったのかな?

   5/5/5           〜〜〜あの日のアルティスタ(25)マノロ・セヴィージャ〜〜〜


  スペインにはフラメンコ協会がないというが(今でも?) 日本にはある!
 フラメンコギターで身を立てられなかったけど、フラメンコの周辺で生きていこう
 とした人たちが、協会を作り、イベリアという会社を作り、月刊パセオを作ったと
 言ったら、意地悪な見方か?派閥と言う程でもないが其々に一定の人が集まる。

  今回、この文章を書いて、イベリアの蒲谷さんがいっぱい出て来るのに驚いた。
 グラナダで会った松下幸恵さんに「蒲谷さんの一派?」と聞かれたが
 全然そんな気はない。確かにスペイン行きの時などいろいろお世話になっているが
 公演のチケット・クルシージョ・ビデオ・フラメンコ衣裳と随分貢いでも来たということ。
 細々と売れない商売をしていた彼も昨今は事業を広げて、左団扇ではないか?

  私がフラメンコを始めたずっと後から出来たパセオとは広告で付き合って来たし
 生徒の靴や小物をまとめて世話する時も、その都度良い商品を安く買える所から
 求めている。

  B型マイペースの私は東京からの程良い距離をいいことに、どこにも属さず
 どことも等間隔でいるのが快適だ。

  フラメンコ協会ができた時もいったんは登録し、協会フェスティバルにも参加したが
 あまりメリットもないし、自分のスタジオの活動が忙しくなると、会費を払わなくなった。

  で、まだ会費を払っていた頃、95年の夏か協会主催のMATILDE CORALによる
 クルシージョがあり、小林伴子さんや鈴木真澄さんなど協会メンバーが参加した。
  愛らしいカンティーニャで、主にマティルデではなく、娘のロシオが踊ったが、
 マティルデは最後にお得意のマントンさばきを披露してくれた。
 
  おばあちゃまは若い子がお気に入りのようで、見にいらしていた香取先生には
 「いい踊りをしますね。」と褒められたが、マティルデにはお呼びでないようだった。
  でも一箇所だけ、エスコビジャの最初の足がとても可愛らしかったので
 心をこめて踊っていたら、‘¡QUÉ BONITO! ’何て可愛らしいのでしょう!と
 マティルデが嬉しそうに言ってくれた。

  これを96年の発表会でマントンを持ってバタ・デ・コーラで踊った時は、舞台前に
 腰を痛めてしまい、大変だった。

  2000年のビエナルか皮切りのアルカーサルでの日に、マティルデの長年の
 セヴィージャのフラメンコへの功績が称えられた。
  この時、弟ミンブレの踊りを初めて見たが、シギリージャのひとつの手本だった。
 彼も若くして亡くなってしまったのは残念。

   24/3/05 記    〜〜〜あの日のアルティスタ(24)マティルデ・コラル〜〜〜
                            

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