1997年7月、子育ての一段落した私(斎藤悦子)は9年振りにスペインを訪れ6月の国際音楽舞踊祭をグラナダで体験した後、セビージャを経由して グアダルキビール河が大西洋に注ぎ込む河口の町サンルーカル・デ・ラ・バラメーダにいた。 
ここで翌日から始まるCARMEN CORTÉS(バイラオーラ)とGERARDO NÚÑEZ(ギタリスト)が主催する夏のクラスに参加するためだ。

カルメンの家でクラスの登録をするようにというので、ひとりで炎天の中、住所を頼りに探し歩いていた。
と、突然バイクを飛ばして精悍な肢体の女性が現れ、声をかけてきた。見ると、何とそれがあのカルメンの小さな顔!
うろうろしている日本の女をみつけ、連れに来てくれたのだ。
カルメンのバイクの後ろに乗って、通り2・3本戻りヌニェスの待つ彼らの家に行った。衝撃的な初対面だった。

その夜に前夜祭のパーティがあるというので、海辺のバーに行った。
10:30PMからというのでその時間に行くと、ほとんど誰もいない。
サンルーカルはヘレスに近いので、ここで呑むのはヘレス(シェリー酒)特に愛されているのはマンサニージャ。
ドライで濃い酒をつまみも取らず、水も飲まずにお替わりする。
私は2004年マラガのヘレス(?)=フィーノで味をしめたが、この時はまだおいしいとは思わなかった。
その内、世界中から参加者がぞくぞく集まり、夜中の12時を過ぎてようやくカルメンのお出まし。
カルメンの家に移動し狭い庭にひしめいてさらにマンサニージャとトルティージャ(スペイン風オムレツ)を振舞われブレリア・パーティが始まってヘレスのブレリアの洗礼を受けた。
(ーーこれがその後場所を変えて毎晩続く。ギターのモライート・チコが参加する晩もあった。)

明け方近くにようやくお開き、午前中にスタジオ集合!
バイレ・ギター・カホン・唄のクラスに分かれ、バイレとギターはレベル別クラスにするためのテストを受けた。
スペインでのクラスは久し振りだったので不安だったが、難なく上のクラスになりソレアを習った。
ソレアのマルカールのいろいろなパターンも教えてくれ、この時出来上がった力強いソレアは同年秋の発表会ですぐに踊ったが、いつもの私のソレアと一味違って「スペインの女の子が踊っているみたい」と生徒に言われるものとなった。

さて、このコース全体の参加者は百人以上になるのだろうかー希望によってピソをシェアしたりホテルを取ったりしたが、私は奮発してホテルにした。いわゆるアンダルシア風のパティオを持つ安いけどいいホテルだった。
ここに泊っているのは、スウェーデンの学校の先生で小柄のさえないおばさん風とスペインの北の方から来た背のすらりとした美形の10代の女の子…ふたりとも下のクラスだったけどそれと私が食事のテーブルを囲むことになった。時には外で昼食や夕食も!
スウェーデンの先生はフラメンコはからきしだったけど、スペイン語は達者で食事中もよくしゃべった!!傍から見ると、おかしな3人組だったと思う。
(ー上のクラスにいたのはドイツ・イタリア・アルゼンチン・カナダなどから来た人たち。概して、北欧やオランダのレベルは低かった。)
ブエノスアイレスから来た綺麗な女性もいたけど、彼女は家族(母親と従兄弟?)と一緒だった。
あとギターに参加していたアメリカのノッポとチビの2人組。彼らは英語しかしゃべらなかったから時々朝食を一緒にとったが、
チビの方は ボンジョビのギタリストだ(だった)というのだが、本当??
日本からは少し遅れて入交さんと紀博さん夫妻が加わり、彼らはカルメンたちの信頼厚いようだった。カンテの川島桂子さんが子連れで参加し、他にギターの男性が2人ばかりいた。

私が参加した1997年は6回目だが、その後も毎夏行なわれているようだ。
サンルーカル・デ・ラ・バラメーダは湘南というより、房総に近い素朴な海辺の町で、海岸に続く大通りには魚介類のレストランがテーブルを出し、平屋で数軒続きの夏の別荘(小屋)が並んで海岸では親子が海水浴している、そんな所。
白とブルーのストライプの日除けの下で黄色のテーブル席に座りティント・デ・ヴェラノ (赤ワインのソーダ割?サングリアの果物がないの)を飲みながら、日本に絵葉書を書くーそんな時間が好きだった。

夜は相変わらず10時半頃に召集がかかり、マンサニージャを呑みながら12時過ぎにカルメンがお目見えするのを待ってブレリア・パーティというのが続き少々辟易したが、クラス最後の夜は楽しかった。
ボデガ(蒸留所)の星降るパティオでクラスで習った曲をそれぞれ披露した。
何本ものギターの伴奏で6~7人選ばれて踊ったソレアも爽快だった。

                 *

カルメンの舞台自体は確か、1993年日本フラメンコ協会の第3回(2回?)フェステイバルに生徒と一緒にグァヒーラで幕開けを飾った(くじ引きでそうなった)時、彼女が招待アーティストとして同じ舞台を踏んだと思うが 鮮明には覚えていない。
その後、2002年のビエナルの時だったか、イスラエルの舞台に客演したが、よく彼の振りに付き合ったなあという感じで彼女本来のフラメンコを見られなかった。
だから、今度のフラメンコ・フェスティバル・イン・ジャパン2005のガラでの舞台がとても楽しみ。
先立って行なわれたアメリカでの評判も上々という。

24/2/05 記  
~~~あの日のアルティスタ(1)カルメン・コルテス~~~

*こんな感じで私が今までに触れたアーティストとのちょっとしたことを気の向くままに時々書いてみようかと思います。
思いがけず今回は長くなってしまいましたが、以後気を付けます。
次回は同じガラの舞台に出演するアレッハンドロ・グラナドス。 彼もバイクで登場します。

ALEJANDRO GRANADOSを初めて知ったのは2000年のビエナルJUANA AMAYAの「メデア」の舞台だった。
自らも幼子のいる鉄火肌のフアナ姐さんの鬼気迫るメデアの相手役として男の業剥き出しの王を演じたアレッハンドロのシギリージャやタラントには度肝を抜かれた。強烈な興味を持った。

かくして次のビエナル(2002年)行きを前にしてイベリアを通じアレハンドロに個人レッスンを申し入れた。
生徒と共にセヴィージャに着いたその夜、早速セントラル劇場でのイニエスタとアレハンドロの舞台はどんなものかと見に行った。
イニエスタが主の舞台だったと思うが、完全にアレハンドロに食われふたりの共演はまるでかみ合っていなかった。
やっぱり私の目に狂いはなかった、明日は本当にスタジオに来てくれるのだろうか、と興奮気味にバルケタ橋を渡り、セントロまで歩いて帰った。

翌朝、イサベル2世橋を渡って(この橋から見る河の光景が好きだ)イベリアがトリアナに作ったスタジオで待っているときっちり5分前にヘルメットを被ったアレハンドロがスタジオ入り口に現れた。その後もバイクで5分前に現れ、ヘルメットを私のいるスタジオに置いて(来た、という証拠?)着替えに行く。律儀なスペイン人だ。
舞台では50才位に見えるのに、素で会うと若い。38~9と見当をつけたが当たっていた。結婚はしていないが彼女はいるという。笑うと八重歯(?)=糸切り歯が目立ってちょっとオマヌケな顔になってかわいい。舞台での荘厳な(しかつめらしい)顔を知っているから尚更だ。

さてレッスンは、というと「カーニャ」を希望していたが聞いていないと言う。振り付け代は別だというので、パーツを少しずつやってもらった。で、結局あとで繋ぎ合わせて「カーニャ」として完成させ11月の発表会で踊った。ビデオで見ると、どうも私の振りとしては似合わない。ブレリアはコミカルだし。

その後、岡田昌巳さんが彼を招いて「フリーダ・カーロ」を公演したが彼のソロ(ファルーカだったか)が突出していた。あとは浮気相手の若い女役(生徒さん)に言い寄るシーンとNOZUさんとの競演シーンが印象に残った。(岡田女史とは男の好みが重なる。RAFAEL AMARGOとも私の後で共演なさったし。)名古屋の松下幸恵さんが招いた舞台は見逃し
たが、彼と共演したがる人は多いだろう。

しかし、共演というのは難しい。それぞれの良さが相殺されずに高め合えなければ意味が無いのだから。
実は今度のガラの舞台では、彼の本領が発揮されていないのではないかと気掛かり。カルメンとの絡みがどの程度あるのかわからないが。
将来、アレハンドロ自身が創る舞台を見られるとしたら、どんなものになるか楽しみだ。

27/2/05 記 
~~~あの日のアルティスタ(2)アレッハンドロ・グラナドス

前回の冒頭に登場したJUANA AMAYAを初めて見たのはクンブレフラメンカの舞台だったと思う。美しくて力強いフラメンコそのものの女性だった。

現在のアルティスタたちには珍しくもないが、ホアナはいわゆるフラメンコ衣裳なるものをとうに脱ぎ捨て、2002年のビエナルだったかではパンツスーツ姿、両脇に小柄な男性を控えさせ、弾丸のようなサパテアードを放っていた。ホアナ姐さんの面目躍如といったところ。そしてレマーテを決めた時のあの強靭な首はいつもステゴサウルス(?)=恐竜を想起させる。

そんな姐さんに直接触れたことが1週間だけある。このシリーズの1回目に書いた1997年、グラナダを早めに引きあげてセヴィージャに着いた時、ホテル近くのスタジオでホアナのクラスがあることを知り電話したのだ。すぐに見学に赴いたのが月曜日。

暑い最中、近くの路地まで行くと、工事中の人がフラメンコのスタジオはここだよと教えてくれる。訊いてもいないのにバレバレ。

中ではテクニカのクラスが始まっていて、見学させてもらうと時々側で遊んでいたホアナの小さな子どもがスタジオの外に出て行ってしまい心配になったホアナが探しに行くということの繰り返し。
その間も強烈なサパテアード音はスタジオ中に響き渡ったままだが…宮崎圭子さんの同じ年頃の子どもと一緒にじゃれ合いながらどこかに行ってしまう。(今なら何とかしてあげられたかも知れないが)

続けてソレア・ポル・ブレリアの振付クラス。音の取り方が難しそうだけど彼女独特の面白そうな振付だった。
早速翌日からの受講をお願いすると1週間単位の支払いなので、今日の分として明日テクニカクラスも受けなさいと言ってくれる。
親切!!

クラス後、何人かいた日本の女性に声をかけようと通りで待っていると(伊藤三千代さんともここで知り合った) 先に出て来たホアナに肩を軽くたたかれ「じゃ明日からね。」と微笑みかけられた。
ー優しい!お姉さんみたい(!?) 生徒の気持ちがわかった。

結局振付クラスに出たのは4時間で、ブレリアまで行けなかったがその後マノロ・マリンのブレリアをつけ、一曲に仕上げた。
さらにベレン・マジャやアドリアン&イスラエルのエッセンスを加味して格好いいソレア・ポル・ブレリアになり、1999年ゆうぽうとや2000年札幌公演 2002年発表会で群舞として披露した。

今、火曜クラスと土曜クラスでこれに挑んでいる。
ソレア・ポル・ブレリアは最もフラメンコらしい曲かもしれない。
振付の腕の見せ所なのだ。
今年9月23日の発表会では装いも新たに登場するのでお楽しみに!

6/3/05  記 ~~~あの日のアルティスタ(3)ホアナ・アマジャ

少し前、TVで鶴田真由が太鼓叩きと笛吹き(鼓童のメンバー?)と一緒に アイルランドから北仏~スペインを旅した番組、御覧になっただろうか?
新聞のテレビ欄に「美男のフラメンコ・ダンサー」みたいなことが書いてあったので 誰かいな、と思ってみたらANTONIO EL PIPAだった。

美男ねーま、否定はしないけど。ヘレスの貴公子(ちょっとトウが立ったけど)というか 多分、ヘレスのおばちゃんたちの間では‘ヘレスの氷川きよし’みたいなもんじゃないかと推察する。
やっぱりトウの立ち過ぎか。

アイルランドではミドルティーン位の女の子たちがアイリッシュダンスを習う様子の場面があり、スペインでもどこかの(ヘレスの?)スタジオで10歳にならないくらいの子がタンゴを踊る場面があった。
幼げな表情の残る子たちがフラメンコを踊りだすといっぱしの女の表情になり、少々下卑た振りは迫力満点!うちのクラスのタランコタランコ気の抜けた踊りをしている人たちに見せたかった。

日本の太鼓と笛とアントニオが共演するというので、どうやるのかな?やっぱり2拍子系のタンゴでも無難にやるのかな?と思っていたら何とブレリアだった!しかも彼がいつも踊っている振りそのまんま!!
日本のふたりにブレリアの複雑なリズムがわかる訳もなく、最後に音が飛び出ないようにするので精一杯。(それでも、飛び出ていたが) ー何とも見事な徹底振りだった!

実は何年か前、ビビンバウの奏者の公演を聞いて感動し、その場で彼に共演を申し込んだことがある。彼は快く応じて後日スタジオに来てくれたのだが、リズムのすり合わせの段になって、おっと、ということになった。彼は民俗楽器奏者でもあり、ブラジルばかりでなく(ビビンバウはブラジルの弦楽器)アラブとかいろいろな音楽に詳しく、それはそれで面白かったのだが、ブレリアのリズムを説明していて「そっちもリズムで合わせてくれなくちゃ」と言われて、はた、と止まった。
フラメンコのコンパスを外して、いろんなリズムに合わせて踊ったり足で踏んだりは可能だが、そんなことをして何になるんだろう?
やっぱりフラメンコはコンパスの中に宿るのだ!とひとり納得して急速に共演への興味が冷めてしまった。

話がそれたが、アントニオ・エル・ピパにも2日間だけブレリアを習ったことがある。石井智子ちゃんの銀座のスタジオで、その後仕事か舞台があるかで、初めの2日だけ出たのだ。
  
話の逸れついでに、何故小松原庸子さんの秘蔵っ子である彼女を「ちゃん」付けで呼ぶのかという説明をしておこう。
30年近く前の話、私が初めてスペイン舞踊を習ったバレエのスタジオで、小学校3年生位の小さな女の子が3人、バレエとスペイン舞踊を踊っていたのだが、その内の小柄なひとりが彼女だった。
私が出産・子育てをしている間に、彼女は小松原舞踊団に入り、先生に可愛がられていると聞いていたが、1984年私が子連れでセヴィージャに行っている時泊っていたオスタルに「ゴヤ」の公演で来ていた団員の中の、美しく背がすらりと成長した高校生の智子ちゃんに再会して、お互い吃驚!その後の活躍はご存知の通りである。

もひとつ序でに言うと、このバレエスタジオが田舎に引っ越してしまい、子どもを育てながら平日昼間に通えるクラスを探してみつけたのが、佐藤佑子さんのスタジオ。
ここで初めてコンパスの存在を知った。佑子さんは自明の理として一度も説明して下さらなかったが。
その佑子さんとそのエル・ピパのクラスで再会した。

このクラスではもうひとつエピソードがある。
冬だったので、フェイク・ファーの衿の付いた黒いロング・コートを着ていた私にアントニオが「そのコートいいね。」と言って来たので咄嗟に ‘NO ES SUYO’=あげないよ (直訳するとあなたのじゃないわよ)と答えたら、ギタリストたちに受けた、というそれだけの話。

ヘレスは実をいうと鬼門。2~3回セヴィージャから行ったことがあるが、カディスが好印象なのに比べ、碌なことはなかった。道で擦れ違った渋めの男に`guapa’と声を掛けられたのがマシなくらい。
1997年サンルーカル・デ・バラメーダから寄った時など、朝ホテルの前のテーブルで朝食を取っていたら、蝿が飛んで来てコーヒーのグラスの中で玉砕した。それを見ながら、私は今日このヘレスの炎天の下で車に轢かれて死ぬのではないかと嫌な予感がしたものだ。いつかヘレスと仕切り直さなくては。

さて今回は、脱線の多い学校の先生の話のようになってしまった。
反省!

6/3/05 記 ~~あの日のアルティスタ(4)アントニオ・エル・ピパ
  

歌舞伎の中村勘九郎がめでたく勘三郎を襲名したパーティの帰り息子の七之助が警察沙汰を起こしたニュースはファルキートの事件と重なった。
車で人を轢いた上に、その罪を他人(弟?)になすりつけたとかで謹慎の身
直後に予定されていた日本公演はキャンセルになり、私たちをがっかりさせた。

何年か前、田中美穂さんが招聘したファルーコ一家の舞台で、幼いながらも一族の血を如実に見せつけていた二人の孫(私には弟の方がおじいちゃんそのものを受け継いでいるように思えたが)の兄の方がファルキート。
20歳くらいになった彼は近年素晴らしく成長したと噂を聞いていたので この目で確かめるのを楽しみにしていたのだが。

西武の堤義明氏の例を引くまでもなく、偉大な父親の子の受けるプレッシャーと驕りの下で、真っ直ぐに自分を生き抜くには強靭な精神力がいるだろう。

余談だが、昔、特許事務所で商標登録に携わっていたことがある。
西武のトレードマークも各国に登録したのだが、西武鉄道のある社員に見初められたらしい。
上司と一緒に所長の許しを得て、昼休みに食事に誘われた。で、どこに連れて行かれたか?
事務所は御茶ノ水にあったから「山の上ホテル」?とチラと考えたが何と事務所近くの立ち食いそば屋!!私、入ったことない!
上司は早々に「かけそば」を注文するので 本人も「かけそば」。私はちょっと反発して「月見そば」を頼んだという笑えない話。
その後お返しにゆったり座れる喫茶店でコーヒーをおごって上司の面目丸つぶれ。何の話も出なかった。
TVの義明氏の顔を見ていると妙に納得できる。あの時万が一にも結婚していたら今こんな自由な生活はしていられなかった。
良かったあ。 

さて、フラメンコ・フェスティバル・イン・ジャパン2005で4日目にマイテ・マルティンと共に看板を張るベレン・マジャの父親は言わずと知れたマリオ・マジャ。母親も今は亡き舞踊家カルメン・モーラである。

MARIO MAYAが今のフラメンコ界に与えた影響の大きさは私などが言うまでもなく 現在活躍中の多くのアルティスタが彼の舞踊団に在籍したことがあり、既に述べたカルメン・コルテスもホアナ・アマジャも彼に発掘され育てられている。

イベリアの蒲谷さんは昔、彼に入れ込んでいた時期があったが、ヒターノの歴史を題材にした暗く劇的なマリオマジャ舞踊団の舞台はそれまできれいなフラメンコを見ていた目にはとても新鮮で且、恐かった。

1991年頃だろうか、碇山奈奈さんのスタジオで彼のクルシージョがあり誘われた。上里由美さんや渡辺薫さんなど当時のメインの踊り手たちがたくさん集まり、テープの音楽に合わせてソレア・ポル・ブレリアが振付けられた。

そのレッスンが始まって間もなく、突然‘Quiten la falda.’=スカートを脱げ、と命じられた。えっ ファルダを脱ぐ?今日のタイツ穴があいて
なかったかしら?下着のラインは大丈夫か?--とそれぞれ頭の中を巡らす。
今と違ってその頃はまだレオタードを着ていたから少しは助かったが…

確かにファルダに隠れてサパテアードを誤魔化すだけでなく、腰の廻し方や足の上げ方の不充分さ、膝や足首の向きなどのいい加減さに苛立って、ファルダを脱ぎなさい、と言いたくなるのは指導する側としてはよくわかる。私は‘その場で’とは言わないが…

マリオ・マジャの振り付けで一番衝撃的なのはマルティネーテだ。
ビデオで勉強させてもらって幾度か挑戦した。

この偉大な父のもと、ニューヨーク公演中に生まれたというBELÉN MAYA.。彼女はその重圧にめげず、すくすくと育った陽気なお嬢さんだ。98年のビエナルで、タジェール・フラメンコのクルシージョに参加した時クラス後に生徒と待ち合わせて中華料理屋で昼食をとっていたらベレンが他の日本人と一緒に居合わせ、気付かなかった私に帰りに合図したその様子が何ともお茶目で愛らしかった。

この時はソレア・ポル・ブレリアとタンゴを少しずつやったが、自身もニューヨークでモダン・ダンスを学んだこともあるらしく、腰を極度に出したり、両手を四角に組んでブエルタしたりという、軸をわざとずらす振りはコンテンポラリーダンスの動きを取り入れたものだろう。ベレン以後この動きはフラメンコ界に広まったといえるのではないか?
子どもの頃10年間モダンバレエを踊っていた私にとっても、この動きは楽しく 振り付けの幅を大いに広げてもらった。

20年もスペイン人のレッスンを受け続けていると、親子に習ったということが出てくる。
ここで親子シリーズを少しいってみようか…

~~~あの日のアルティスタ(5)マリオ&ベレン・マジャ
8/3/05 記                <親子シリーズー1>

大好きなフラメンコも仕事になってしまったが、アルゼンチンタンゴは趣味だ。
1992年銀座で習い始め、95年のABCホールでの20周年記念公演は`SABOR A TANGOS’と銘打ち、フラメンコはRAFAEL AMARGOと、タンゴ・アルヘンティーノは 師であり日本第一人者の小林太平氏と、ふたつのタンゴを踊り比べた。

フラメンコを踊る時は性別を超越しているが、アルゼンチンタンゴを踊っていると 私は女だったんだ(?)と思い出せる。
引いたり仕掛けたりの駈け引きは 現実の男女関係より艶っぽい。

2000年夏、あこがれのブエノスアイレスに渡り、夜な夜なアルゼンチンの男と踊った。
経済的に逼迫しているという国だが、首都ブエノスアイレスは前世紀(前々世紀か)のパリの香、ネオンが灯り始める頃あちこちのタンゴバーからバンドネオンの音があふれ 暗い光の中では盛装した男女がタンゴで囁き合う。ヨーロッパから流れ着いた悲哀がメロディーになり、ノスタルヒアを歌う。

イタリア系とスペイン系が多いというが、フラメンコも盛んらしい。で、ここ出身のバイラオーラが LA CHINA。93年の後半だろうか?
新宿エルフラメンコに出演した。(ここで RAFAEL AMARGOを発見したのだが)

96年か、その後来日した時に彼女のクラスに出た。手下ちゃんが一緒だったと記憶している。その時習ったシギリージャは、スペインの泥臭さはなかったが、95年に自分のスタジオを新松戸の自宅近くに作ったその第1回目の発表会(96年秋)に踊っている。

で、その息子が理論派のADRÍAN GALIA。各曲毎の教則ビデオも出しているが、草野桜子さんのスタジオでのクラスでは私の質問にいろいろ答えてくれた。‘君はこっちの肩が下がってるよ’とも教えてくれた。
左肩にショルダーバッグを掛け、左足を上に組む癖があるので、左腰が上がり左肩が下がっているらしい。だから疲れると左腰に来るのか…

この時も偶然シギリージャで、親子のシギリージャを一緒にして99年ゆうぽうと公演で上級クラスが踊った。その時のグリーンの衣裳のデザインから、称して‘怪獣のシギリージャ’

アドリアンの舞台で一番好きなのは、やはり桜子さんと草月ホールで公演した時のファルーカ。ガリシア地方で生まれたこの曲はアドリアンに良く似合う。

アントニオ・ガデスのファルーカが好きだった。
壮年になってからのガデスではなく ‘ロス・タラントス’のビデオの中で夜外のテーブルの上を渡り歩きながら踊る20代のガデス。
死の間際に店のガラスにもたれて崩折れていく時の顔の美しさーーそう、バイラオ-ルの(バイラリンのかな)魅力は死のイメージだと思う。牛と闘って死んでいく闘牛士のように。

この時のアドリアンのファルーカにはそれがあった。痺れた。
終演後、赤坂一ツ木通りにあったタンゴ・アルヘンティーノの店まで歩き、親しくなり始めたアルゼンチンのダンサーに息つく間もなく興奮気味にしゃべった。その店も今はない。
子育てが一息ついたら、ここで夜遊びしてやろうと思っていたのにオーナーの急死であっけなく閉店になってしまった。最近歩いてみたら全国どこも同じチェーン店が軒を並べる街になっていた。

すべては夢の跡。 80過ぎたら、ブエノスアイレスのタンゴバーでタンゴを聴きながら翌朝には人知れずこときれていた、というのが理想とうそぶいていたものだ。

~~~あの日のアルティスタ(6)ラ チナ&アドリアン・ガリア
10/3/05 記                <親子シリーズー2>

セビージャのサンタ・クルス地区はユダヤ人街だったという。イスラエルは名前からして、この血を引いているのだろうか?

親子シリーズで一番気になっているのは、イスラエルとホセ・ガルバン親子だ。

1995年に RAFAEL AMARGO を招いて公演した時、生徒たちのブレリアの振付を高橋英子さんに、タンゴと私のティエントの振付をJOSÉ GALVÁN に頼んだ。

JOSÉにも新松戸のスタジオまで来てもらったのだが、生徒に教えている最中に 「悦子、ちょっと」と陰に呼ぶ。生徒一人に付きいくらという料金体系だったのだが 遠くまで来たのだから金額を上げてくれ、と言って来る。
スペイン人は仲良くなってもお金に関してはシビアだが、クラスを中断してお金の交渉とは…!
さすが、シェイクスピアの昔から商売には熱心ということか。

その後もビエナルに行くと、どの会場にも姿を現わして、自分のクラスの売り込みをし 息子イスラエルや娘パストラの売込みをし、この間はエヴァの2日目のチケットを開演間際まで売ろうとして、生徒たちにダフ屋のおじさんと間違われた。

小太りの身体をものかは、軽く跳び上がっちゃったりもするブレリアは愛嬌があるのだがJOSÉに振付けてもらった TIENTO はあの体型だから合うのだろう。私が踊るとしっくり来ない。
なのに振付が終わった日に、記憶のためにビデオに撮らせてくれという。私が踊って。で、このビデオをイスラエルが見たらしく、97年彼のクルシージョに出たら、彼は私を知っていた!

イスラエルの振りを踊ろうという果敢な(無謀な)人はあまりいず、クラスは渡辺雅子ちゃんら4~5人だった。クラスで習った曲は一度は自分で踊るか、生徒に振り付け直すかするのだがさすがにこの疾走するアレグリアスは通して踊ることは断念し、シャープなブエルタのコツとかいくつかの部分をいただくにとどめた。
それより、測り知らぬ以後のイスラエルの進化(?)の萌芽を垣間見られたことの方が大きいかも知れない。

因みにこのクラスの様子を後ろで見ていたのが、まだほんの少女だった妹のパストラ。それが数年後にファルキートの代わりにホワキン・グリロと来日した際、あんな豊満なタンゴを見せるバイラオーラに変身していたとは驚きだった。彼女は今でもJOSÉの掌中の娘だろう。

私が1番好きなのはビデオで見た、96年ビエナルのマヌエラ・カラスコの舞台で踊ったソロのシギリージャと、男性4人で順番に踊ったアレグリアス。
このあたりのイスラエルは マリオ・マジャに学んだことを糧に、自分の
世界をはっきりと打ち出しつつあったところか?

次の98年のビエナル時に仲間とレストラン`TORRE DEL ORO’に入って行ったら他のテーブルにいたイスラエルが片手を上げて軽く挨拶してくれた。はにかみ屋の素直な青年といった風情だった。

このビエナルで機械音をバックに踊った「赤い靴」は、衝撃的な大作だった。
赤い靴を履いて生まれて来た、つまり生まれながらに一生踊ることを運命付けられた 彼自身の悲しみが痛々しく胸に迫ってきた。
振りは時に機械仕掛けのお人形のようでもあった。あれは「覚悟」の決意表明だったのか?

次に見たのは2002年のセントラル劇場か。さらに先に進み、グァヒーラは楽しめたが 他はイスラエルどこ行っちゃうの?という感じだった。宇宙人になっちゃうのじゃないか?

考えてみれば、小さい時からフラメンコのすべてをマスターしマリオ・マジャを経てロック・ラップ・テクノミュージック全盛の若者文化の中にあって、変わっていかない方がおかしいのかも知れない。フラメンコのエッセンスだけを研ぎ澄ましているのか、それともフラメンコの解体作業をしているのだろうか?
凡人が付いていけようといけまいと、彼独自の道を邁進しているようにみえる。

JOSÉ に ISRAEL の踊りをどう思うのかを聞いてみたい気もする。
ふたりの間にどれだけの葛藤があったのか?意外にもすんなりと遠くに行こうとしている息子を認め、後押ししているのか?

フラメンコの先鋒という面ばかり語られるイスラエルだが大きな力を持とうとする(過保護の)父親のもとで、恐らくいったんは反抗し、覚悟し、自分の道を模索して貫こうとする息子の成長物語として読んでみるのも、面白いかと思う。

~~~あの日のアルティスタ(7)イスラエル&ホセ・ガルバン
13/3/05 記              <親子シリーズー3>