火曜クラスで振付が終わったばかりの TANGO DE MALAGA はLA TONA の振付によるものである。1990年の初めに碇山奈奈さんのスタジオで習った。
やたら噛み付かんばかりのフラメンコが流行る昨今では、こんなにたっぷりとした振付は珍しく、レトラの持つゆったりとした感じを表現する勉強になると思う。
私は92年に新宿エルフラメンコで4曲踊った時、マノレテのTARANTO をパンツ姿で踊った後、対照的にこのTANGO DEMALAGA を艶(あで)やかに(?)踊った。
直後銀座博品館ホールの十五周年記念のフラメンコ・フェスティバルにソロを誘われた時 (確か初々しい吉野真未ちゃんがいた)何を踊ろうかと迷った揚句、やはりこの曲にした。
トナは落ち着いた人妻の魅力を持ったセビージャ出身のバイラオーラで、カンタオールのだんなさまといつも仲睦まじかった。
奈奈さんのスタジオはトイレのドアが直接スタジオに面していて入りづらいので、1時間半かかって通う私は早めに行って、近くのスーパーマーケットで時間を潰していたが、そこでいつもおふたりに出くわした。いい感じのご夫婦だった。
ちょうどその頃、私はサングリアというプロの(クラスを教えている人たちの)グループに加わっていた。で、そのグループでもトナに教えに来てもらうことにした1日目、更衣室でトナが私に‘じゃ、あなたがこのグループをDIRIGIRしてるの?’と聞いた。 DIRIGIRがわからなかった。指導する、とか 導く、とかいう意味。そんな!
フラメンコ歴はともかく大半が年上で、しかも わりさや憂羅さんが抜けた後に入れてもらったばかりだというのに…
結局90年秋に6人でABCホールで公演した舞台では、トナに習ったソレアは踊らず各々のソロの他は、田中美穂さんに習ったカラコレ(今、マントンとアバニコを持って月曜クラスが挑戦中!
私たちはさらにバタ・デ・コーラだった)と水沢明雄先生に習ったファリャの三角帽子の中のラ・ビダ・ブレベの難しいパリージョ付き(!!)を群舞した。
この時仲良くなったのが、ちづこさん(大塚千鶴子さん)とやすこちゃん(曾我辺靖子さん)
今二人共フラメンコ協会の理事としてがんばっている。
何年か後にセビ-ジャに行った時、トナのスタジオに行ってみたがちょうど改装中だった。あれから15年も経つのか…他の曲はどんどん新しく振付し直すのに、この大好きな TANGO DEMALAGA には不思議と手を加える気にならない。
その後ビデオでしか拝見しないが、あの素適なご夫婦はお変わりないだろうか…
13/3/05 記 ~~あの日のアルティスタ(8)ラ・トナ
回想ついでに、私のフラメンコの原点とも言えるMANOLETE=MANUEL SANTIAGO MAYA について書きたいと思う。
マノレテの記憶は既に何回か登場した碇山奈奈さんと分かち難く結びついている。
1985年か、東北沢のアモール・デ・ディオスで、奈奈さんがクラスレッスンを始めた時 アトリエカルメンをしている永瀬洋子さんに誘われた。
今考えると、やはりマノレテの振りだったのだろう、複雑なソレア・ポル・ブレリアやタラントに皆悲鳴を上げた。ここでギターを弾いていたのが、その後長くお世話になることになった若き日の
山崎まさし氏だ。
この時の逸話で覚えているのは、ある日奈奈さんがマンションを空けられないとかで電話がかかって来、私を指名して自習を進めるように言ってきたこと。
名誉なことではあるが、前からの奈奈さんの生徒を前にして、途方に暮れてしまった。
もうひとつは東北沢の駅からスタジオに向かう途中で、後ろから追いついた奈奈さんが「私、スタジオを持とうと思う。子どもがいないのだから、その分スタジオくらい持ってもいいんじゃないかと思う。」というような言い方をしたこと。
小学校に入ったばかりの子を持つ私にとっては、将来自分のスタジオを持つことなど考えも及ばなかった。
そんなことより、子どもが学校から帰って来た時、なるべく家にいてやりたかったのでクラスの進み具合が遅いのが気になった。
個人レッスンをしてくれることになり、アルス・ノーヴァでマノレテのソレアの振り移しをしてもらった。当時の奈奈さんのお気に入りの曲だったのによく教えてくれたものだと思う。
「斎藤さんの表現は私と違うから」と言うが、私は奈奈さんから「表現のしかた」を学んだ。
その2年後くらいに彼女は方南町にスタジオ・エランを作り挨拶に行った。
その頃からマノレテとの共演が始まり、彼のクラスに誘ってもらった。
初めは歯が立たなかったが、この時のソレアと奈奈さんを通して習ったソレアから 自分のソレアを創り、それが私のバックボーンになっている。
最初のレトラの振りを替え、エスコビージャも発展させ途中に入るソレア・ポル・ブレリアと最後のブレリアもその度変えているが、全体の構成と山崎さんとの大好きなファルセータ
の部分2つ目のソレアの唄、ブレリアに入って行く箇所はそのままに、5年・10年毎に踊っている。
これを見ると、その時の私がわかる。いずれにせよ、これ以上好きな曲には出会えまい。
こういう曲に出会えたことは幸せだろう。
碇山奈奈さんは、最も尊敬する日本人バイラオーラである。
あの時のマノレテとのマルティネーテは私にとってパレハの目標
であり、最初に見た今はなき新宿ギターラでのガロティンの
登場シーンは一生忘れ難く、最近の「忠臣蔵」も世界に出せる
作品だと思う。
そしてマノレテは2000年のビエナルだろうか、隣の席に
いた家城直子ちゃんに言ったように
「やっぱり私にとっての男性舞踊手そのもの」なのだ。
15/3/05 記
~~~あの日のアルティスタ(9)マノレテ&碇山奈奈
前回のマノレテがグラナダ出身だからだろうか、セビ-ジャ派・ヘレス派などと分けると 私はグラナダ派である。
つまりグラナダ出身の踊り手に縁があるということ。
何回か触れて来たがまだ書いていない、1997年にグラナダに滞在した時の話をしようと思う。
この時は、イベリアの蒲谷氏の持つアルバイシンのピソにお世話になった。
つまり、かのアルハンブラ宮殿から見下ろすヒターノたちの住む迷路のような白い街の ど真ん中で暮らしたのだ。
洗濯物干し台でもあるテラスからも部屋からも見渡せるアランブラ宮殿は夕陽に真っ赤に染まり、夜はライトアップの中に浮かび上がり、それを見ながら眠りについた。
事前に良く知らずに泊めてもらったのだが、ここはホームステイに近く、階下に住むヘルマン氏の所有する部屋で、蒲谷氏がグラナダに来た時に泊るらしく、シーツも洗濯しているのか臭いが染み付きつまり……が熟睡後、不思議と懐かしい朝を迎え、寝過ごした子どもの頃の目覚めのようだった。
通りで豆腐売りとの話し声が聞こえる幻聴がした。さらに知らなかったが、バスルームを共有する隣の寝室にはヘルマンJRが眠るはずだったのに バスルームから寝室までバスタオルを巻いて移動する習性のある私は、夜、玄関の内鍵を閉めて寝た。
結果ヘルマンJRを一晩締め出してしまった。でもまさか、これじゃ夫より近くに寝ることになるじゃないか!
国際音楽舞踊祭に合わせて行ったので、毎晩のようにペーニャ(フラメンコ愛好家の集まり)があった。
石畳の曲がりくねった細い坂道はタクシーも入れない。往きは親切にもヘルマン氏が送ってくれることもあったが、深夜の帰路は一人。
人っ子ひとりいない暗い道を靴音を規則正しく響かせながら歩いた。
後から聞いた話によると、私の前に泊っていた日本人の女の子が夜暴漢に襲われ顔を殴られて入院していた!
ペ-ニャは会場によっても雰囲気が異なったが概ね友好的で色んな人と知り合った。ある中庭ではスペイン語クラスの外国人(大人)たちのテーブルに座らせてもらい、その先生らしき人は上智大(なるほどスペイン語が盛ん)で最近まで教えていたそうな。
名古屋の松下幸恵さんと友人の現地でガイドをしている男性とも別のペーニャで一緒になって呑んだ。
あるペーニャで奇想天外なことが起こった。
外国人の観光客が多かったのだろうが、私は前の方の真ん中あたりで聴いていた。現地の唄い手らしい MANOLO OSUNA の TARANTOがあまりに良かったので 我知らずハレオを掛けていた。
そうしたら、休憩後登場するなり、こちらを向いて「前に来て唄え」と言う。キョロキョロしていると、皆がお前のことだ、と私を見る。
`¿YO? NO PUEDO CANTAR.’ =私?唄えません。と必死で辞退した。
踊れ、ならまだしも、唄え、とはねえ…
昼間は暇なので、どこかに習いに(踊りを)行こうと探したがグラナダ出身の踊り手たちの多くが最初に習いに行くマリキージャはバルセロナに行ってて留守、ヘルマン氏(ギター製作者、木屑の舞う工房も見せてくれた)が広場でマノレテをみかけたから、頼んであげようかと言ってくれたが、マノレテとの1対1のレッスンは少なくともその時点では恐れ多く…結局、サクロモンテのCARMEN DE LAS CUEVASというスペイン語とフラメンコの学校で上級の個人レッスンを頼んだら MARI PAZ LUCENA を紹介してくれた。
洞窟のスタジオでタンゴとブレリアを少しずつやってもらったが今度日本に行くという。
(確かに数年後大阪とその後新宿のエルフラにメインで出演した。他のメンバーは印象に残っていないが マリパスは自分のスタイルを持った踊り手になっていた。)
レッスンが終わって外に出ると、ギタリストの恋人と抱き合ってBESOしていた。乾いた小道には 紫色の小さなCAMPANILLAが咲き誇っていた。
実は会いたかったのは、マノレテやマリオ・マジャの甥っ子でもある JUAN ANDRÉS MAYA だった。
JARDINES NEPTUNOという大きなタブラオに出ていると聞いて郊外まで出向いた。(バスで?帰りはタクシーも拾えず大変だった。)
何人かの女性相手にホアンが踊るショー形式の出し物は感心しなかったが、幕間に彼をみつけて個人レッスンを申し込んだ。
肩に腕をまわしたホアンに、「明日からNYだから また今度ね。」と軽くいなされてしまった!で、その後どうなったかは、次回。
16/3/05 記
~~~あの日のアルティスタ(10)
マノロ・オスナ&マリパス・ルセナ
<グラナダ シリーズー1>
子どもの頃、グラナダのサクロモンテの洞窟で踊っていたJUAN ANDRÉS MAYA を初めて日本に連れて来たのはやはりグラナダに住み着いていた高橋英子さんだと思う。
1994年王子の北とぴあの小さな舞台で、ホアンはまだ少年の面影を残していた。
次は96年頃か、イベリアがホワキン・グリロと共に3人の若手男性舞踊家として紹介した。
この時のホアンの女振りのソレアには甘やかな香りがあった。
24才、世阿弥のいう「時分の花」だろうか。
日本フラメンコ界の女たちを魅了した。
97年私がまずグラナダに行ったのは、半ばはホアンに会うためだった。が、前回に書いたようにNY公演に行くということで敢え無く断られた。
翌98年には恵比寿の大塚千鶴子さんのスタジオでソレアを2000年初めにはマルティネーテをその後アルテフラメンコのサラさんのスタジオではタラントを其々習う機会に恵まれた。
殊にバストンを持ってのマルティネーテの時にはクルシージョ後エルフラで発表会をするとかで誰か踊らないかと言われた。
皆下を向いていたら、やはり下を向いていたホアンが眼を少し上げ 私を顔で差して ‘¿TU?’と聞く。いいなあ‘TU’の響き!でもゴメン、ホアン、私4月初めに決まっている札幌公演でこのマルティネーテも踊ろうと思うので、早速私のヴァージョンに創り変えたいんだ。
このまま、エルフラで踊ってる暇はない。札幌では全部で4曲踊るし、生徒の分も全体の構成もしなくちゃならない。
ー結局サラさんと何人かが群舞で踊ったらしい。
JUANの舞台は、青山円形劇場でも、六本木の交叉点近くに短期間どこかの食品会社が設けた派手な造りのタブラオでも98年のビエナルのオテル・トリアナでも、命を削らんばかりのパフォーマンスだった。何とかして客を盛り上げようとするのだろう、ホアンもういいよ、寿命縮めちゃうよと言いたいくらい必死でこれでもか、これでもか、と鼓舞する。
客はたまに乗り切れない時もあるがたいていは狂わんばかりにヒートアップする。
客へのサービス精神はサクロモンテの伝統なのだろうか。
98年のオテル・トリアナでは終演後興奮覚めやらずちづこさんとふたりで係員の制止を「日本から来た友だちだから」と振り切って楽屋に行き、カンタオーラと共に歓迎されてBESOで
再会を祝した。
その後もビザの問題があったり、病気や仕事を理由に何回か来日はキャンセルになっている。
今は世界のJUAN ANDRÉS MAYA として、世界中のホアンのファンを熱狂させているのだろう。
17/3/05 記
~~~あの日のアルティスタ(11)
ホアン・アンドレス・マジャ
<グラナダ シリーズー2>
RAFAEL AMARGO と共演しようかと思い立ったのは下世話に言うと 踊っている時の顔が昔の恋人に似ていたからである。日本人だけど役者の卵だった。
グラナダ出身のラファは当時は RAFAEL HERNANDEZといって、ラ・チナに連れられて新宿エルフラメンコに出演し、ソロを踊り、若い相手役としてチナとも踊っていた。
そのソロの素晴らしいソレアを見て、一緒にいた生徒たちもたちまちファンになりショーの合い間にテーブルに呼んでその場でレッスンに来てもらうことが決まった。
共演が決定的になったのは、94年の秋、これも生徒と一緒に京都に行った帰り 名古屋の人の公演に招かれたのを見に行った時だ。
これなら私の方がいい舞台を創れると思い、フィナーレに赤い薔薇を1本贈って次は私、と宣言した。打上げの前に彼を拝借し、居酒屋で話が急速に具体化した。
翌95年は私の舞踊生活30年、スペイン舞踊を始めて20年、教え始めて10年という節目の年だったので芝のABCホールで記念公演と称し、習い始めて3年のタンゴ・アルヘンティーノを師である日本第一人者の小林太平氏と踊り、ラファとフラメンコを踊る。
フラメンコのタンゴも踊り、2つのタンゴを踊り比べて公演名も‘SABOR A TANGOS’パレハはカーニャを振り付けることにし、ラファにはファルーカのソロを所望した。
それから、何回かの練習が始まるわけだが、我がままで悪い子ちゃんと評する人もあるが(あれだけ美しいのだからモテて当然!)来日が遅れたり、最初の内はレッスンに
ダレていたこともあったけど、私には素直でいいパートナーだった。私生活ではレッドロブスターであっちのアイスクリームがいい、こっちのケーキがいいと駄々をこねる子ども(20になるかならぬかの)だったけど。
本番前のリハーサルで振りを変えるなどもあったが本番ではちゃんと気を遣ってくれて息の合ったパレハになった。
写真で見ても、ビデオで見ても、どの瞬間もピタッと合っている。
私の後にも、岡田昌巳さんを初め何人かが共演しているがパレハの出来としては 私のカーニャが群を抜いていたと自負している。
相手の呼吸で踊るというのは大変なことで、岡田先生は途中からラファと踊ることを捨ててしまった節がある。
もうひとりのスペイン男性とたくさん踊っていたし、やはりラファには手を焼いたのだろう。
パレハは惚れた相手としか出来ない。その後も遭う度にラファから悦子、またやろう、と言われたが、あの時の私だから出来たのだ。
その後MADRIDに行った時に、彼のピソに寄らせてもらってご両親ともお会いした。パパはラファを売り出すことに熱心で名前もHERNANDEZは平凡だから、AMARGO(苦い)にした
と説明してくださった。
EVAとの共演などにも力を尽くされたのだろう。
近年スペインでの人気も急上昇中と聞いていたが、昨年10月1日に自分の舞踊団を率いての初の日本公演をするというので、ビエナルから前日に戻って応援に行った。
出来は今ひとつで、「見て!見て!」状態がホアキン・コルテス路線を行ってるようで、気になった。
最終的にはベテランの唄い手たちに助けられ、自身も客席に降りて握手をするというサービスでファンを掴んだようだが。
楽屋に行ってハグというより、飛びついて抱き合ったが30を迎えようとするラファは素直な青年そのままで安心した。
でも10年前のソレアの方が私は好き。5年後、10年後のラファがどんな踊り手になるか見守りたいと思う。
17/3/05 記
~~あの日のアルティスタ(12)ラファエル・アマルゴ
<グラナダ シリーズー3>
GRANADA にまたひとり怪物が現れた。
小怪獣 FUENSANTA ‘LA MONETA’その瞳は、獲物を見据えたトカゲ(爬虫類)のようである。
イベリアの情報誌 ANDALUCIA時代での蒲谷さんのインタビューによると カルメン・アマジャを見て私はバイラオーラにならなくては、と思ったという。
影響を受けたのは、カルメン・アマジャ、マヌエラ・ラスコ、エヴァ・ジェルバブエナと言っているがまさにこの3人に続くのがラ・モネタなのは間違いない。
この間のビエナルのハビエル・ラトーレの舞台で‘発見’した。
JAVIER LATORRE は以前ビデオで見て振り付けのうまい人だと知り、いつかレッスンを受けたいと思っていた。
鈴木能律子さんが招んだ時、太ってしまっていたのに驚いたが、2002年にはコミカル・フラメンコとでも呼ぶべき領域を開拓して楽しませてくれた。
新しい人を発掘する才にも優れ、今回のビエナルにはどんな舞台を見せてくれるかと期待していたが、構成のヒントは与えてくれたものの、余り冴えなかった。
で、唯一光り輝いていたのはモネタのシギリージャだった。
隣の席の日本人の女の子に 誰だかわかります?と訊いたが恐らく知る人はほとんどいなかった、と思う。
帰国後間もなく、エンリケ・エストレメーニョの推薦でイベリアでクルシージョをすると知った。
あれを見て習いに行くお調子者も少しはいるだろうけどモネタだからいい、彼女のようには踊れないのに、誰が行くのかな?と最初思ったが、結局受けに行った。
20才の今の彼女と同じ板の上に立ってみたいという好奇心に抗えなかったのだ。
クルシージョ自体はベレンやロサリオのと余り変わらなかった。つまり若々しい雰囲気が。
音の創り方は尋常ではなかったけど。一箇所だけ褒められた!
最後の日の夜、サラ・アンダルーサでのステージを見た。皆、打ちのめされたようだった。もう何にも言うことはない。
ただただ新しい逸材の出現を歓ぶしかない。
一緒の舞台に立つマラ・マルティネスなどもいい味を出し、大いに盛り上がるのだがモネタが決定的に異なるのは、彼女がその場を切り裂くことだ。
勿論定めた振りはあるのだが、それを感じさせずにその場に素手で挑む。音を畳み込みながらただその瞬間にその場に生み出そうとする、何かを待つ、というの
だろうか、神をか、奇跡をか 見ている私たちも彼女と一緒に待つ、一緒に体験する、そういう空間なのだ。こういう感覚はマヌエラ・カラスコにしか経験したことはない。
恐るべし LA MONETA ! 同時代に彼女を迎えられた
ことに素直に乾杯!!
18/3/05 記
~~~ある日のアルティスタ(13)ラ・モネタ
<グラナダ シリーズー4>
1998年のビエナルの時か、ヘレスに行った帰りサンタフスタ駅からホテルまでの道がわからず通りかかった若い女性に尋ねたら同じ方向だと少し一緒に歩いてくれた。
夏の翳りが見えていた頃で、セヴィージャには夏と冬の2つの季節しかない太陽が容赦なく照りつける夏から、ある日突然冷たい雨の降る季節になるでもそれがいつかは毎年わからない、などと話していて別れ際、今晩エヴァの舞台を見に行く、と言ったら彼女は「セヴィージャの人じゃないでしょ」と言った。
一方、ホテルに隣接した銀行で両替をしたら窓口の男が「ビエナルに来たのか? 昨日サラ・バラスをTVで見たか?良かっただろう。」と嬉しそうに言う。
サラ・バラスはスペインでもアイドル的存在で一般受けするというか、イベリアの蒲谷さんはじめ男性のファンが多いようだ。
多分子どもの頃のカディスのグループの古い映像を見たことのある私には、未だにお嬢さん芸という印象が拭えないのだが。
フラメンコを習っている女性たちに圧倒的に崇拝されているのは LA YERBABUENA(エバ・ガリード・ガルシア)であろう。彼女もまたグラナダ出身である。
エヴァについては、前回のビエナル報告記で1ページに亘って書いたし、今更私が あれこれ言う必要もないので、ここでは個人的な話をしよう。
私がエヴァに肩入れするのは、天賦の才に恵まれているばかりでなく、研究熱心 且つ真摯な生き方に共鳴するからで、人間的資質が近いからだと思っていたが月刊パセオ4月号のインタビュー記事を読んでなるほど、と思った。
13歳で学校に行くのを止めて、父親に自宅にスタジオを作ってもらったエヴァはビデオを見ながら朝3時4時まで踊っていたという。
私も念願叶って自分のスタジオを10年前に作って以来深夜まで、ある時は早朝にスタジオにこもり、ひとり踊りビデオを研究するのを無上の歓びとしている。
夕食を一緒に食べようと待っている夫がいなければ寝食忘れて自宅に戻らないだろう。
クルシージョでは確かにその人と一緒に身体を動かす利点はあるが、最高のものは出してくれない。
ビデオではその時点のその人の最高のものをもらえるのだから。
そしてエヴァの常に自分の内側と向き合う姿に共感する。自分の中に何があるのかを探り、取り出そうとする、一瞬一瞬が賭なのだ。
冒頭のビエナルの舞台で、アメリカの禁酒法時代のような髪型と白いドレスのしっとりしたソレアに魅かれて楽屋に行き、‘LA UNICA BAILAORA DEL MUNDO’=世界で唯一無二のバイラオーラと言いたかったのだがあの強い光を持つ眼でまっすぐに見つめられた時言葉が出て来なかった。
あの眼で見られたことがもう1度ある。
エヴァのクラスを初めて受けた時、ソレア・ポル・ブレリアだったが、鏡越しにギラッと見られた。
エヴァの斜め後ろにいて、ある振りのもっとも彼女らしい身のこなしをそのまま、取ったのだ。してやったり!である。
マヌエラ・カラスコやラ・モネタがFLAMENCAだとしたらエヴァ・ラ・ジェルバブエナはARTISTAである。
先述の記事に続くページで、フラメンコ・フェスティバル・イン・ジャパン2005のガラで日本デビューするロシオ・モリーナが「ジェルバブエナをあまりに好きだから何度も見たくない 真似になってしまいそうで。」と言っているが、私ももうこれ以上ここでエヴァについて語りたくない。
20/3/05 記
~~あの日のアルティスタ(14)エヴァ・ジェルバブエナ
<グラナダ シリーズー5>